映画批評
「父親たちの星条旗」(2006)クリント・イーストウッド そのジョン・フォード的無名性について 2006.10.29
★はじめに
蓮實重彦はこの映画の人物の「無名性」についてパンフレット書いている。同様に私も強く感じたところの「画面における無名性」。この感覚をもたらすものは何か。
映画を見る、ということには、映画そのものを感じる、ということも含まれている。私がこの映画を見て想起したのは「リバティバランスを撃った男」(1962)であり、「黄色いリボン」(1949)であり(追記これは「アパッチ砦」の間違いでした。お詫びして訂正させて頂きます。2006.11.18)、そして「テキサス決死隊」(1936)である。
★「リバティバランスを撃った男」
ジョン・フォードの傑作「リバティバランスを撃った男」は、伝説と真実との美しき戯れである。リバティバランスという悪人を撃った男は伝説の上では「新しい男」である。西部開拓時代は終わりを告げ、社会に必要なのはガンマンではなく法であり、シンボルとしての伝説であり、英雄であった。そうした社会に応えるように新しい男は悪人を倒し、英雄となり、伝説となる。だが真実「リバティバランスを撃った男」は「古い男」であった。彼は人目につかない家の「陰から」リバティバランスを撃ったのである。
時代は常に進歩を求め、新しい者を求めてゆく。だが、「リバティバランスを撃った男(これはそっくりそのまま「アメリカを陰で支えて来た人々」と読みかえることが出来る)」を、我々は決して忘れてはならないのです、という「アメリカ建設」における見事な寓話だ。
時代が伝説を求め、英雄を求めている。だが真の英雄は影の中へと消えてゆく。ジョン・フォードは、この二重構造の物語を、光と影と視点と構図を駆使しながら、ジャーナリストに答える回想という手法によって見事にあらわして見せた。
「父親たちの星条旗」も同様に、ジャーナリストではないが、新しい時代を背負う者の質問に古い男たちが答えるという回想形式によって、英雄伝説と真実とを徹頭徹尾衝突させながら描かれている。旗を立てている写真は、実は二度目のもので、それも「政治家にハタを記念に贈呈する」というつまらない動機から事務的になされたものだ。だが、伝説は、最初にハタを立てた兵士でなく、二度目に立てた兵士たちへとなびいてゆく。何故ならば「写真」があったから、という皮肉である。客観的と信じられている写真が存在することが却って真実を捻じ曲げている。
「リバティバランスを撃った男」においても、写真と同様の役割を「目撃者」が果たしている。新しい男がリバティバランスを撃つ瞬間を、大勢の者たちが目撃している。西部劇の決闘にしては、やけに「見物人」が多いものだと不思議には感じられなかったであろうか。「伝説」を目撃し、広めたのは紛れもないこの「目撃者」たちにほかならない。ジョン・フォードは意図的に、目撃者を大勢置いたのだと私は思う。敢えて「目撃者」を置くことで、真実を伝説から分離させたのだ。この逆転の発想の素晴らしさはどうであろうか!「目撃者」がいたがために、伝説は真実の手の中から逃げてゆくのである。
ジョン・フォードとイーストウッドは、「目撃者」と「写真」という、法廷でも証拠能力ありとして採用されうるところの二つの「客観」を通して、見ることのあやふやさと不確かさとを画面の上で問いかけている。
そして我々は「動く写真」であるところのモーション・ピクチャーを見ている。この「父親たちの星条旗」はモーション・ピクチャーである。「目撃すること」と、「写真そのもの」、のあやふやさを主題論的に画面に露呈させたこの二つの作品は、「シネマ」そのもののあやふやさと、そのあやふやさの持つ素晴らしさまでもを露呈させている美しいフィルムである。
こうして、見ることのあやふやさを露呈させた両者のフィルム的な主題が、「伝説の嘘を暴く」であるとか、「英雄でっちあげの偽善性」などといった「善と悪を客観的に決定する態度」からは遠く離れた地点に置かれていることは言うまでもない。両者のフィルムはただ真実と伝説とを匿名性なり無名性の中で衝突させ、我々に対して投げ出しているに過ぎないのであり、決して「これが真実だ」などという軽薄な態度をキャメラは語ってはいない。
★「無名性」とは
「リバティバランスを撃った男」は物語的にも、視覚的にも徹底して「無名性」の映画であった。リバティバランスを撃った古い男は自殺を図る。女にふられたからだろうか。それは違う。彼は自分の「古さ」が腹立たしくて仕方なかったのだ。私はこれほど切実で重苦しい「自殺」の場面を他の映画で見たことはないし、これほど壮絶に「老い」を描いた画面もまた知らない。
だが「古さ」に苦しみ続けている男をジョン・フォードは一言の説明もなく、陰という無名性の中へと消えさせてゆく。残酷なまでにジョン・フォードは古い男を匿名性の中へと埋没させてゆく。そうすることで逆にジョン・フォードは、「古い男」を心底賞賛しているのだ。「社会は進歩し、古いものは不要となり、新しいものへと取って代わられる。それも良いだろう。だが我々は決して「リバティバランスを撃った男=アメリカを陰で支えてきた人々」を忘れてはならないのだ」、、、そんなジョン・フォードの声が画面から聞こえて来る。
「無名」であることとは「支える」ことであり、「勇気」であり、「誠実さ」であり、何よりの美徳である。だからこそ両者の映画の画面は、兵士たちが、そして古い男が「無名性」の中へと埋没して行けば行くほど、それが逆に大地に根を張った人間的感動として我々の胸を打つ。
★「黄色いリボン」(追記これは「アパッチ砦」の間違いでした。お詫びして訂正させて頂きます。2006.11.18)と「テキサス決死隊」の「無名性」
私が映画を見ているその最中に感じた他の2本はジョン・フォード「黄色いリボン」とキング・ヴィダー「テキサス決死隊」である。このどちらもが「無名性」への賞賛を謳った作品に他ならない。
「黄色いリボン」は、馬に乗って行進する騎兵隊の姿が、窓ガラスにロングショットで反射して映っているショットで締めくくられている。当然ながら、兵士たち一人一人の顔はボヤけていて良く見えず、そこに映っているのがジョン・ウェインなのかウォード・ボンドなのか、見ている我々には「見分けが付かない」。ジョン・フォードはここで敢えて兵士たちの「無名性」を強調し、彼ら全体を、「名もない兵士」として視覚的に賞賛しているのである。
同様に「テキサス決死隊」の素晴らしいラストにおいても、画面は主役のフレッド・マクマレーではなく、テキサス決死隊の兵士たちが、逆光のシルエットで映し出されたロングショットで終わっている。兵士たちは「兵士たち」として抽象化され、賞賛されているのである。
★「父親たちの星条旗」と視覚的無名性
「父親たちの星条旗」の冒頭は、「父親」の回想の夢から開始される。戦場の只中で「衛生兵!」と呼ばれ、立ち尽くす男の周囲をキャメラはクルクルと回転する。父は悪夢にうなされ、飛び起き、見事な配光で彩られたリビングルームのシルエットの影の中へと消えて行き、階段で発作を起こして倒れる。
ここには「夢」があり、「影」があり、「階段」がある。
★夢と断片性と無名性
この映画はまず回想によって語られる枠物語であり、脚本は「クラッシュ」(2004) で時間を細切れに断片化させて見せたポール・ハギスである。だがこの作品の脚本は「クラッシュ」のように論理的ではない。物語はあやふやで、ハリウッド的物語の起承転結は悉く回避され、逆に論理に支配されない出来事性の優位によって画面は重苦しく埋め尽くされている。
《「父親たちの星条旗」の冒頭は、「父親」の回想の夢から開始される》。と書いたように、この映画の回想は「夢」なのであり、従って極めて断片的で、心理的に加工され、非論理的であやふやなものとして描かれるのは当然なのであって、そうするとこの映画は「写真」のあやふやさの上に「夢」の不確かさまでもが加わった、徹頭徹尾「不確かなもの」として構成されていることになるのである。そしてその「不確かさ」の象徴が、「無名化」された兵士たちの姿に他ならない。
こうした点から間違いなく言えるのは、イーストウッドは決して「この作品は真実である」などという「うそ」を付こうとはしていないという点であり、それどころか映画の中の人物や出来事、さらに言うなら映画そのものの「うそ」までもを暴きながら、あらゆるあやふやさを衝突させて、自然と真実らしき何かが涌き出てくるのを我々と同じ側で待っているのである。そうした点でこの作品は、非常に「映画的な」物語構造を持った映画であるといえるだろう。
ハンドカメラが揺れるのが映画のうその証であるなら、冒頭のシークエンスでキャメラがヒッチコックの「めまい」のようにクルクルと衛生兵の周りを回転するのもまた、この映画がマイケル・ムーアのように「他人のうそ」だけを取り上げる一方通行の作品ではなく、自らのあやふやさをも同時に暴いた作品であることを露呈している。
ラストの海の俯瞰のロングショットもまた「テキサス決死隊」のようにその「無名性」の現れであり、この映画は、何処をとってもハリウッドの「スターシステム」とは対極にある。
★光と無名性
父親が逆光の影の中へと消えていったり、「インタビュワー」の顔がシルエットに覆われているのもまた、「無名性」への埋没を促進しているし、列車のデッキで話をする兵士たちの顔を断続的に照らし出す夜のライトもまた、彼らの匿名性を押し出している。
★病院の光
このような無名の兵士たちを、イーストウッドはいつものように、病院の病室に差し込む外からの真っ白な光によって視覚的に賞賛している。
★結論
社会を支えている人間たちはすべてがみな「無名」である。その「無名性」の醸し出す匿名性の美しさと力強さとが、「父親たちの星条旗」の画面を根底で支えているのだ。
★終わりに
私はこの映画が所謂「傑作」だとは思わない。画面そのものの驚きよりも、画面そのものの驚きを削ぎ落とすことによって得たところの倫理的な態度と視点とでもって映画が成り立っていると感じるからだ。逆に言えば、神業のようなギリギリの映画であり、その感覚は何となくホウ・シャオシェン「珈琲時光」の、「捨て去ることで得る」ところの感覚と似ているとも言えるだろうか。
今日、私はこの「父親たちの星条旗」を見て、またしてもイーストウッド映画の前に泣いてしまったのであり、それを突き止めたいという思いが「批評を書く」という、探求の行為へと私を走らせたのである。しばらくしてからもう一度見に行きたい。
映画研究塾 2006年10月29日©
追記
上述の「黄色いリボン」は「アパッチ砦」の間違いでした。お詫びして訂正させて頂きます。
映画研究塾 2006年11月18日